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三田村光土里×孔 成勳 場所:資生堂ギャラリー 2002年8月は、今まで通り夏だった。日曜日だというのに銀座のホコ天にはまばらにしか人がいない。お盆の帰省ラッシュではなく、暑いから人がいないのだ(…たぶん)。しかし、暑さなんかに負けてばかりいられない。太陽なんかにナメられてたまるかってんだ。気負いだけは立派に体育会系してみるのも、夏らしいといえば“らしい”気がする。 冒頭にも書いたが2002年である。2002年であるということは、21世紀なのだ。時代がそこで区分けされているのには何か意味があるのか?…たぶんあるだろう。19世紀には19世紀の、そして20世紀には20世紀の時代というものがあり、そこで時間を区切ったときからそれは、はっきりと違う時代なんだと思う。 三田村光土里の作品を観たとき、三田村がどんな作風で、そしてどんな経歴の持ち主なのか全く知らなかった。“銀座ならなんかやってんだろ”学生という身分を剥奪されたので、美術館の一般料金800円は結構痛い。ギャラリーならタダだ。ここぞとばかりタダを楽しんでしまう。お金が無いときは無いなりに、それなりに楽しめてしまうのだ。 出会ってしまったからにはそこに関係が生まれる。作家が作品を展示するということは、作家が他との関係を持ちたがっているということである。何かを人に見せるということは、そういう意味もあるのだ。そしてそこに何かを求めてやってくる人がいる。今回はたまたま僕だった。最初からそこへ行くつもりで来た人もいれば、なんとなく覗いてみた人もいる。皆それぞれ何かを期待してそこへ首を突っ込み、期待していたものかそれ以外の何かを手に入れる。 階段を降りていくと、奥まったところに三田村の作品はあった。壁の写真には、青い空の下、緑の草が茂った土手を日傘をさした女性が歩いていた。間隔を置いて、その写真を垂直に裁断したような土手の緑と空の青だけの風景。そして空だけの風景。また間隔をおいて、今度は古臭いバッグが壁にかけられている。それは、バーコードのように幅の違うものが規則を保ちつつ並べられているようだった。 日傘の女性の写真には、彼女が進む方向に極端にスペースがとられ、空しくて寂しくて孤独な印象を受ける。しかしそれは、絶望感に打ちひしがれるほどではない。それほど力強くはないのだ。ゆっくりと退行していく世界に気がついたらいつのまにか周りを囲まれていて、瞬間的に白痴になってしまったような虚ろな世界を感じる。もしかしてそれは、裁断された写真と写真が、そして空間の取り方がそう見せたのかもしれない。写真同士は連続した何かを感じさせるが、しかし空間の取り方は、それとは違う断絶した状況を漂わせているのだ。 90年代、現実への失望感が日本を覆った。アニメ・映画はもとより、現実に起こる犯罪の質もそれをにおわせる種類のものが増えていく。世紀末だからなのか、バブルがはじけたからなのか、それとも昭和が終わったことが原因なのか、戦後日本の父や母が築いてきた“豊かさ”は、バブルとともに吹っ飛び、その後それに替わるような“豊かさ”のサンプルは提示されていない。 21世紀が明確な目標を持てない時代だとすれば、90年代はそこへの移行期間と捕らえることもできなくはない。それは20世紀の感覚からすればとても力なく見え、永遠の20世紀を求める人間たちは、20世紀に居座りつづけようとする。しかし、時代は確実に21世紀へと変化を見せているのだ。冒頭にも書いたように、世紀という時代区分がある以上、そこでは違う時代があるのだ。過去の時代を無理にでも続けようとすれば、破綻を起こすの当然である。 経済を支える巨大な会社組織が悲鳴をあげ、ネットが20世紀に生まれたエンターテイメント産業を食べ尽くしていく。物語も力を失い、それを伝える言葉も死んでしまったのかもしれない。すべては地上に引きずり落とされ、人の足元で萎縮しているかのようだ。芸術だって例外ではなく、20世紀に大衆に飲み込まれた芸術は、大衆芸術という形で文化の態をなした。しかし、もはや大衆と呼ばれるような大衆は存在せず、とすれば大衆芸術なるものも姿を消すしかない。なんだかわからない我々の不安はふくらみ、不安を忘れようとする欲求に答えようとメディアは新しいものを喧伝するが、時代は20世紀ではない。そこに大きな効力が見出せなくなってしまったのだ。 だとすれば21世紀はどんな時代なのか?そんなことはわからない。ただそうした問いに答えられるような明確な指針が無い時代なのではないか、とは思う。ならば我々の不安はふくらむばかりなのか?そうかもしれない。そうだとすれば、不安を飼いならすことが必要なのかもしれない。 三田村の作品は、90年代から続く我々の不安を取り除くような質のものではない。むしろ彼女もまた不安の渦にいると思っていいだろう。今回の作品ではぎこちないピアノの演奏(バイエル)が流れている。それはとても懐かしく耳に残る。日本人の多くは、同じような生活水準でそこから来る同じような体験を共有している。子供のころにどこかの家から聞こえたピアノの練習曲は、かなり個人的な小さな世界を想像させる。我々は知りすぎた。知りすぎた世界は、小さな世界を“小さな”世界へと押さえ込み、そこにある宇宙をないがしろにする。三田村の作品は、受け手の記憶を膨大にふくらませ、増幅装置のような役目を果たすのだ。何かをにおわせる極端な構図の写真、裁断された写真、古臭いかばん、そしてぎこちないピアノの演奏。どれも完璧なものではなく、不思議さを残す。そのことが受け手にとって、自らの頭の中へ意識を集中させることを促し、記憶をふくらませやすくするのだ。 我々はまだ気付いてはいない。記憶は膨大であり、その膨大な容量は単に受け皿としてしか利用されていないのだ。21世紀への不安を読み解くためには、マクロ化されてしまった記憶をミクロの単位までふくらませることが必要なのかもしれない。とにかくこの大きな海を使わない手はない。だってそれぐらいしか手持ちの武器は装備されてないのだから。行くしかねぇんだったら、ガツーンと行っちゃってみましょうよ。行かねぇでウダウダ言ってても何もなりそうにないし、いい加減そういうのにも飽きたでしょ。と、いうわけで以上だったりする。
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