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映画戯言 第004回 ベルトリッチの「殺し」 監督:ベルナルド・ベルトルッチ/製作:アントニオ・チェルビー/原案・脚本:ピエロ・パオロ・パゾリーニ/脚本:ラベルナルド・ベルトルッチ/撮影:ジャンニ・ナルツィージ/音楽:ピエロ・ピッチョーニ/出演:フランチェスコ・ルイウ、アルフレード・ラッジ、アレン・ミジェット、ジャンカルロ・デ・ローザ 製作年:1962/製作国:イタリア/時間:92分/製作、配給:チネマトグラフィカ・チェレヴィ、ケイブル・ホーグ/ ベルトリッチのデビュー作。まるで本郷猛を小バカにしたような名前だが、『ラストエンペラー』を撮った有名な監督である。 公園で女性が他殺体で発見され、警察の捜査により、その時刻現場周辺から数人の男が参考人として浮かんできた。物語はその男たちへの取り調べから、犯行のあった当日の行動が語られていき、徐々に全体像が見えてくる。現場の周囲にいた男たちから徐々につむがれていく世界。それぞれがそれぞれに主役であり、脇役でもある。はっきりとしたオムニバスではないが、こういうのもオムニバス形式と言っていいのだろう。章節と章節が緩やかなにつながっていて物語の世界観を大きなものにしている。この方式をとったオムニバスをわりとよく見るのだが、一体何が最初なのだろう。おそらく映画ではなく、小説なのだろうけど、この形式を思いついた人はすっげぇ。そんなことをアホ面さげて思う。 脚本、原案はピエロ・パオロ・パゾリーニ。遺作『ソドムの市』で変態野郎Aチームぶりを遺憾なく発揮した、背徳の映画監督パゾリーニである。実はソドムですっかり気分を害した僕は、パゾリーニの他の作品を見たことがない。僕は映画を自分の気分に合わせて選んでいるので、わざわざ気分が悪くなるような映画を観たいとは思わない。まあ、それでも10代の頃はそうでもなかった。映画を観るにしても自分の価値観の外にあるものに触りたくてうずうずしていたし、触ってみて後悔したりもした。当時と今では時間の経過もあるし、1度目のようないやな気分にはならないだろうが、まだまだ他に観たいものがたくさんある。 そんな気分になるのは一応理由がある。数年前に祖父が死んだこともあり、死というものが非常に近くで体感できた。自分が何年生きるんだか知らないが、はっきりいってそう遠くない時間の後には、確実に自分の痕は消えてなくなっている。歴史の中じゃ、あっというまに100年なんて通り過ぎてしまう。幸か不幸か限られた時間しか自分には与えられていない。別にクソ真面目に生きようなんてちゃんちゃら思っていないが、てめえのケツはてめえでしか拭けないことは確実のようだ。だから1度観てもう1度観たいと思わないものは今のところ自分には必要のないものってことなんだと思う。 ・・・とそんな嘘八百を並べてみる。何も考えずにここまで御託を並べることができるのだから、僕を信じないほうがいい。じーさんが死んだことは本当だけど、わざわざそんないろいろ考えて映画を観る観ないなんて考えちゃいねえよ。でも、フツーに嘘が出るってのはホントすごいね。ちなみに今『世界大戦争』って映画を観ながらこんなこと書いているもんで、なんも考えていないの。そんなんじゃどちらも中途半端になりそうな気がするけど、円谷英二の特撮のところだけもう一度見直しているだけだから、そうでもなかったりする。 さて、『殺し』の方に話を戻そう。白黒の映画ということもあり、ベルトリッチの色彩の美しさは影を潜めざるを得ないが、それを抜きにしても甘酸っぱいフランス映画のようなシーンがぐっとくる。イタリア映画なんだけどフランス映画っぽく、淡いトーンのラブチュチュ青春群像をやってたりするのだ。正直こういうのに僕は弱い。素直に物語の中に身を置くことができないひねくれ者が、センチに浸れるのは本当の物語の中だけなのだ しかしそれにしてもこの映画、どういう意図で作られたのか知らないが、まるでベルトリッチのための宣材のようだ。オムニバス形式の中でいろいろな種類を試したのか、それとも自分はいろいろできるんだぜとアピールしたかったのか。いずれにしてもこの作品でベルトリッチは『できる監督』になったんだと思う。その作品が抜け目ない気持ちで作られたとしたらなんか嫌だなーと思う。 |
◎ 本郷猛 ◎ ラストエンペラー ◎ オムニバス ◎ ピエロ・パオロ・パゾリーニ ◎ ソドムの市 ◎ 嘘八百 ◎ 御託を並べる ◎ 世界大戦争 ◎ 円谷英二 ◎ 特撮 ◎ 宣材 |
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